バンコク体験記

 12 バンコクの裏側。 

 
ところでバンコクの街を歩いた4日のあいだ、俺は何か買物で小銭を得ると、使わずにポッケに入れていた。街のいたるところに座り込んでいる物乞いのお椀にそれを投げ入れるためだ。
日本にも「ホームレス」と呼ばれる人たちは大勢いるが、いわゆる「物乞い」姿の浮浪者はほとんど見られない。
そういった視点だけで見ると、日本は、アジアだけでなく欧米と比べても気味の悪いくらい「清潔な」国だと思う。単に裕福な国というだけではなく、働かざるものなんとやらという感覚が押し付けがましいほど行き届いた潔癖さのせいもあろうか。

バンコクは、今や外国資本が数限り無く入り込み、高層ビルが立ち並び、高級車も走り回る東南アジア随一の都市だ。
ただ、そこに住む人々が横並びに富を得られるわけはなく、それが都市を形成する上での宿命ともいえるだろうが、当然のように取り残されてしまった人たちは数知れない。
タイの福祉事情がどのようなものかは把握していないが、社会福祉が末端の人たちにまで手を差し伸べてくれることはないようで、障害者や身寄りのない老人、孤児など、最も社会的に「弱い」人たちは路上に座り込み、見知らぬ誰かの善意をアテにするししか生活の糧がない。
俺がそういった人たちに小銭を投げ入れるのは、別に善人を気取るためではなく、外国に行ったときは何となくいつもそうしている。もちろん同情心はあったろう。ただ、小銭といっても、20バーツ(約60円)から紙幣があるので、その下の10バーツ、5バーツ、1バーツだけが、俺の「善意の象徴」である。
総額にしたら4日間合わせてもせいぜい100バーツ程度だったと思う。
全く誇れることもない微々たる善意だ。

そのなかで、俺は、3日目に逢った老婆のことが忘れられない。
その老婆は、中心街から外れた人通りの少ない歩道橋の上に座り込んでいた。
ボロをまとい、肌はホコリでかさぶたのように汚れ、ひび割れたガラスのコップ1つを自分の前に置いていた。そして、曲がった腰をさらに折り曲げ、目を閉じてひたすら合掌していた。
微動だにしない彼女の合掌は、まるで化石のようだった。

日陰すらない歩道橋の上で、照りつける太陽を避けることもなく、一体何を祈っているのだろうか。

俺は、ポケットに手を突っ込み、握りしめた小銭を彼女のコップに投げ入れた。
ガラスと銅がぶつかる乾いた音が鳴り響く。
俺は、その老婆を眺めながら、歩道橋の端まで歩き続けた。
しかし、まもなく階段に差し掛かり、その姿が見えなくなるかどうかというところで、俺は立ち止まって改めて老婆に振り返った。

その老婆は、果たして俺が投げ入れた小銭を確認するのだろうか?

意地の悪い好奇心だったが、もしも俺が投げ入れた小銭がわずか1バーツか2バーツだったら、この焼けるような日射しの中、まだ1日の食費を稼ぐために座り続けていなければいけない。
だけれども、もしも、(そんなことは過去にあったこともないだろうが)慈悲深い何者かによって数百バーツだかのお金を投げ入れてもらえたとしたら、彼女はこの直射日光から身体を避け、しばらくのあいだ生活の不安から解き放たれることが出来るだろう。(実際、投げ入れたのは15バーツ程度だったが)

果たして、老婆は確認するのだろうか?

俺は老婆をしばらく見ていた。
ところが、老婆はぴくりとも動かない。
合掌は解かれることなく続けられ、わずかながらに目を開ける様子すらもなかった。

その姿を見て、俺は思った。

もしかしたら、その老婆にとっては、コップに入っている小銭が幾らだろうとどうでもいいことなのではないだろうか。

彼女が何年道ばたに座り続けているのか分からない。
だけれども、そうやって座り続けた結果、彼女には俺や他の人間なんかには分からない「世界の仕組み」をよっぽど知ってしまっているのではないか。

第二次世界大戦中に、レジスタンス運動からアウシュヴィッツを体験したユダヤ人プリーモ・レ−ヴェがこんなことを書いている。

「いいか、覚えておけ、おれは三つのことしか信じていない。ウオツカと女と自動ライフルだ。昔は理性も信じていたが、今はもう信じない」

どんなにか過酷な状況でも、その世界を体験し尽くした者にしか悟れないことが、確かにある。

俺は階段を降りた。
照りつける暑さのせいで、喉が乾く。
目にした屋台に腰を降ろすと、店員がメニューを差し出した。
見ると、40バーツでビールが飲めることが分かった。
だけれども、俺はこのときコーラを注文した。
そのコーラは25バーツで、20バーツ紙幣を2枚出せば、15バーツの小銭が手に入るからだ。


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