頭ならびに腹ならびに尻




ちょっと今回は浅はかな知識ながら、18世紀の哲学者・カントが行った考察についてから話しを始める。(なお、人文科学は専攻外なので誤った知識がありましたら、御指摘願います)

カントは『純粋理性批判』という著書の中で、アンチノミ−の検討を行った。アンチノミ−とは、相反するふたつの命題が同時になりたってしまうことで、「二律背反」などと約されるものだ。
例えばカントは、「世界は有限か無限か」という問いについて、それぞれに背理法による「証明を与える(なお「背理法」は、「Aである」と「否、Bである」とのあいだに第三の可能性が存在しないことが条件)。

テーゼ(肯定的命題)
「世界には時間における始まりがあり、空間についても限界のうちに囲まれている」
アンチテーゼ(否定的命題)
「世界には始まりはなく、空間においても限界が存在せず、時間に関しても空間に関しても無限である」

テーゼに関しては、アンチテーゼの主張を、アンチテーゼに関しては、テーゼが含む論点を前提してみせて、その主張するところが矛盾に陥ることを示したのである。

テーゼ。
世界に始まりがないのなら、現在までに無限の時間が経過し、永遠がすでに過ぎ去っていることになる。ところが、世界が現に存在するということは、現在にいたる無限な時間が現時点で完結していることを前提としている。つまり、ここで矛盾が生じる。よって、無限の時間が経過することはありえず、世界には時間的な始まりが存在する。
アンチテーゼ。
世界に始まりがあるのなら、世界の始まりといわれる状態の前には、世界が存在していない状態があったはずである。世界がまだ存在していない以上、そこには空虚な時間だけが存在していたことになる。ところが、総ての物事は何らかの根拠がなければ存在し得ないので、空虚の時間のうちに、なにかが始まることはありえない。ところが現に世界は存在している。よって、世界は時間的に無限である。

ここにカントは、「世界は有限でも無限でもない」という結論を見い出したのだ。
もちろん、カントはここからさらに考察を重ねるわけだが、ここでは、このカントの考察を参考に新しい命題を提案したい。

それはこうだ。

テーゼ(肯定的命題)
「キャバクラは、「私」にとって有意義であり、通うことに意味がある」
アンチテーゼ(否定的命題)
「キャバクラは、「私」にとって無意義であり、通うことに意味はない」

テーゼ。
キャバクラが有意義じゃないとすれば、「私」はキャバクラに通っていないはずである。1回や2回ならともかく、何百万もお金を使うほどにハマることなどあり得べくもない。よって、「私」はキャバクラに通うことによって何がしかのものを得ており、「私」にとってキャバクラは無意義ではない。
アンチテーゼ。
キャバクラが無意義じゃないとすれば、「私」は精神的にか物理的にか肉体的にかは問わずとも、なにか得ているモノがあるはずである。ところが、「私」が得たモノは空虚だけである。「私」にとってキャバクラは空虚な存在でしない。(結果的にはともかく)人が心の底から自発的に「空虚」そのものを求めることはあり得ない。よって、「私」にとってキャバクラは有意義ではない。

つまり、キャバクラは有意義でも無意義でもない。

「私」が見出した結論は以上である。

そんなことをぼんやり考えながら日々をこなしていた折り、またサイトを通じて新しい人たちと出逢う機会があった。
6月11日(金)に、埼玉県在住キング氏(31)と、
6月16日(水)には、愛知県在住の気まぐれマジシャン氏(30)である。

キング氏は御自慢のザウルスにオキニのキャバクラ嬢、店鋪ならびに当サイトの常連データを保管するIDキャバクラーとして活躍し、気まぐれマジシャン氏は、世捨て人も真っ青の両手に抱え切れないほどの荷物を抱えて、わざわざ愛知県からやって来た。
二人の共通点は、自ら収めたオキニの写真を大切に保管し、皆に披露してくれたところと、全く奢ってくれなかったことである(失礼。別に構いません)

果たして彼らに取って、キャバクラは有意義なのか無意義なのか。

俺は思わず気になった。
残念ながら、この質問を投げかけることが出来なかったのは、結局のところ、その答えはただ彼ら自身が握っているからである。。

参考/熊野純彦「カント−世界の限界を経験することは可能か−」

 

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